広島盆栽

江戸時代から400年以上続く、庭能花園のある広島市の己斐地区(西広島)は、盆栽の発祥の地とも言われ、現在でも造園業が多く残っている地域です。庭能花園の敷地には松、桜、紅葉など、さまざまな木が並び、鉢植えや手入れ中の盆栽も数多くあります。
 1619年(元和 5 年)紀州から第三代広島城主として浅野長晟が広島へ入府のとき、大阪の牡丹屋次郎右衛門が牡丹づくりのため藩主に従ってきました。そして、牡丹づくりの適地として白羽の矢を立てたのが己斐だったのです。このことが機縁となり、凡そ260年後の明治中期から植木・盆栽・花木の栽培が盛んとなり、大正、昭和10年頃にかけて、己斐がこれらの日本屈指の産地となりました。一説によると、所謂「盆栽」という名称も己斐地区から全国へと広がったとされています。尚、牡丹屋は大阪に帰り、その息子の植木屋次郎右衛門が己斐に定住し、植木屋第一代とされました。
 
 広島盆栽の技術には、広島の花崗岩質によって形成される真砂土があります。水捌けがよく、栄養に乏しいこの土質は樹木の生育には不適です。しかし、己斐は植木の移植が目的であるからこそ、樹木の育成をコントロールし、美術品としての庭木を生産する技術が発達しました。そのため、広島の盆栽は、美しく緻密なディテールが可能となるのです。また、安芸十りに代表される「たたら製鉄」によって生み出された優良な鉄によって作り出された花鋏は、仕立てに最適でした。たたら製鉄と盆栽双方の職人による匠の技が、その神髄には存在しており、技術を深化していったのです。

 現在、日本盆栽の価値が認識され、BONSAIの名のもとに世界中に広まってきています。400年前、浅野藩の庭園「百花園」が創設されてより、広島は城下町を中心とした山陽の要所として華々しい庭園・花木・盆栽の文化が確かに存在しました。その中心地・己斐です。この地に脈々と受け継がれた匠の技と技術を活用し、次代に受け継ぐため盆栽の「裁」の字を「綵-あやぎぬ-」に変え、-広島盆綵-として「BONSAI」に新しい命を吹き込み始めました。「綵-あやぎぬ-」とは美しい絹織物を表す言葉であり、盆栽とは、盆上に一つの世界を創り出す芸術です。緑という自然そのものを使い、さまざまな伝統文化や最新の技術を盆上に結び付け、織成すことで新しい世界を創り上げ、美しい織物を生み出します。それが「広島盆綵-HiroshimaBONSAI」のコンセプトであり、生み出された作品や新たなモノは、国内外に浸透し、世界に通ずる価値観を生み出すことができると考えられています。
広島盆栽は現在も伝統を受け継ぎながら、進化し続けています。

広島盆栽