岩田知真と夢見るけん玉
けん玉は伝統的な木製玩具であり、スパイク、左右のカップ、紐に取り付けられたボールで構成されている。2017年、私はけん玉発祥の地である廿日市で開催されたけん玉ワールドカップを見に行った。子供たちは技を見て興奮するだろうと思っていたのだが、競技場で私たちが目にしたものは、予想外のものだった。
おもちゃ以上のもの
バギーシャツにジーンズ姿の子供たちが巨大なGショックの前で演技をし、バイリンガルの解説者がステージ上のDJが回す重低音のビートに乗せて技の名前をまくしたてた。会場は熱気に包まれた。けん玉が流行っているのだ。ある名前がずっと挙がっていた: 地元の木工会社の社長である岩田知真が作ったけん玉で、けん玉の世界に革命を起こしたと聞いた。
2023年、私は廿日市駅近くにある岩田のけん玉屋を訪れ、岩田知真へのインタビューに備えていた。翌日、私が岩田知真に会うことを耳にした少年がいた。「ずるい!」と叫ぶ。放課後、父親と一緒に40kmもかけて店を訪ねてきた少年は、工場を見学するのが夢で、いつかそこで働きたいと願っているという。岩田知真が単なるおもちゃ屋でないことは明らかなようだ。
材木置場が僕の遊び場だった
そう言う岩田知真には木工の血が流れていると言っても過言ではない。弟と一緒に父親の仕事場の材木場でよく遊び、小学4年生の頃には広島の書道筆メーカーの軸を作る手伝いをしていた。
He jokes that he would sometimes fight with his father, protesting that none of his schoolmates’ friends were put to work in factories, but he says that he never really felt that his upbringing was that out of the ordinary. Thanks to this early start, Kazuma was already a fully fledged woodworker by the time he was in junior high.
時代遅れの遺物から教育ツールへ
イワタ木工は現在でも筆の軸の製造を主な事業としているが、最近ではインテリア・デザイン(本社のホワイエにあるギャラリーには、知真さんしか彫れないという見事な木製の花瓶が展示されている)や生活用品にも手を広げている。しかし、けん玉は知真の情熱であり、会社の使命の中核をなすものである。
知真は、幼少期にはけん玉をしたことがなかったという。そのため、地元のけん玉メーカーが姿を消したことを憂慮した地元の市職員が、けん玉の活性化を手助けするために知真の父に連絡を取ったとき、知真は感銘を受けなかったという。
「僕にとってけん玉は過去のもので、ダサいものでした。誰も欲しがらないものをわざわざ作る意味がわからなかったんです」。
しかし、地元のけん玉イベントを訪れたとき、それは一変した。けん玉に夢中になって、かっこいい技を披露する子供たちを見て、彼は興味を持った。もともと子どもたちと関わることが好きだった彼は、けん玉が素晴らしい教育ツールになること、そして特に内気な子どもたちを殻から引きずり出す手助けになることを確信したという。
知真はけん玉をやってみようと決心したが、自分なりのやり方でやりたかった。彼は、けん玉を作るだけでなく、遊び方をマスターすることに打ち込み、毎日8時間も練習した。知真の成功は、この練習がけん玉の製造技術に反映されたからだという。
「けん玉をフラストレーションのたまるものから、最初から達成感を味わえ、ずっと続けて痛くなるものに変えたかった。」
2004年、4年の開発期間を経て「夢元」が誕生した。精密な技術、繊細な表面研磨、鏡面仕上げの塗装により、見た目の美しさだけでなく、使いやすさも格段に向上したけん玉が誕生した。選手は、粗悪なけん玉の良いところを寄せ集める必要がなくなり、耐久性を高めるために重ね塗りされたウレタン塗装に変更されたことで、よりグリップ力のあるけん玉となった。
伝統との戦い
けん玉プレーヤーは「夢元」を愛用したが、「夢元」が支援しようとしていたけん玉の門番たちは違った見方をしていた。日本けん玉協会(JKA)の登場である。
JKAは1975年以来、伝統的な郷土玩具としてのけん玉の保存を担っており、コンテストや技能検定で使用できるけん玉のルールを決めている。
JKAは、知真のけん玉は出来が良すぎると異議を唱え、夢元の精密な作りは他のけん玉メーカーに不利になるとした。協会側は、知真にもっともっと認めてもらうよう要求した。知真は彼らの要求に応えようと最大限の努力をしたが、効果はなく、やがて自分が注視されていることに気づいた。ストレスのあまり、知真は胃腸出血で入院した。2009年、心配した父親を安心させるため、彼は自分の健康を第一に考え、生産を中止した。
だが、「夢元」に費やした年月は決して無駄ではなかった。筆職人たちは、「夢元」の製造から受け継いだ改良のおかげでイワタ木工の軸が扱いやすくなり、作業効率が向上したことに気づいた。そして、伝統的な書道筆メーカーが化粧筆に移行していく中で、イワタ木工はその要求に応えることができるようになったのである。
生まれ変わった「夢元」: 夢元無双
イワタ木工は新たな道を歩み始めたが、世界はまだ夢元を手放す準備ができていなかった。けん玉はライフスタイル・スポーツとして海外で成長し、夢元はオークションサイトで高値で取引されていた。知真のソーシャルメディアの受信トレイは、生産再開を促すメッセージで埋め尽くされ始めた。知真は情熱的なプロジェクトに戻ることを考え始めたが、現状に満足することなく、もう一度レベルを上げたいと思った。
2013年、「夢元無双」が発売された。無限の可能性を秘め、夢を追い求めることができるという意味と、イワタ木工の品質を追求した精密なものづくりへのこだわりが込められている。 従来の小さな子供用より一回り大きく、大人や海外の選手にも対応できるよう、バランスの問題を解決する必要があった。その結果、トリックの完成が容易になり、満足のいくサウンドが得られるという嬉しい副次的効果もあった。
イワタ木工は、JKAの着色規定を無視し、けん玉の製造を中断していた間に化粧筆の柄で培った塗装技術を駆使して、内側から輝くような美しいメタリックや半透明の仕上げを施した。夢元無双はまさに美の極みである。実際、知真は自分のけん玉を「遊べるオブジェ」と表現する。
限界に挑戦し続ける一方、未来に向けても作り続ける
工場を見学すると、手作業がいかに多いかがわかる。想像力と好奇心、そして木材が加工によってどのような表情を見せるか、道具にどのように反応するかを感じ取る能力は、長年の経験によってのみ得られるものだ。
日本の伝統的な接合技術に敬意を表したイワタ木工の限定版けん玉は、その好例だろう。彼が見せてくれた玉は、2種類の木材を巧みに組み合わせて渦巻き模様を作り出している。木目は完全に一致している。私の驚きに、彼は嬉しそうな表情を浮かべる。それこそが、彼が目指しているものなのだと彼は言う。
知真は、自分の経験の恩恵を新しい世代に伝えたいと考えている。23歳の久保は、指導者として訪れた知真からけん玉を教わった。高校卒業と同時にイワタ木工への入社を決めた。
次代の名工と嘱望される久保は、けん玉のパーツを手作業で丁寧に機械にかける。彼もまた、けん玉を広めるために学校を訪問したり、イベントに参加したりしている。彼のように、イワタ木工に入社することを夢見る生徒が出てくることを願っているのだ。
そんな知真の夢はどうなのだろう?
つい最近まで、2023年けん玉ワールドカップのトロフィーをいかにして実現するかという野心的な構想で夢はいっぱいだったと笑う。毎年トロフィーを寄贈することに誇りを持ち、毎回新しいことに挑戦している。今年のトロフィーは5種類の木材を使い、すべてが複雑にリンクした美しい芸術作品に仕上がり、完成までに2カ月半かかった。彼が次にどんな夢(作品)を描く(作る)のか、今から楽しみだ。