片岡商店:柳行李からドローンまで127年の歩み

はしごの上に不安定に乗った75歳の父親に向かって、「何をやっているんだ」と、片岡勧が憤慨した様子で声をかけると、父親がよろめきながら「騒ぐな」と答えた。

ここは広島平和記念公園のすぐ西、十日市にある片岡商店の倉庫である。創業127年、半世紀にわたって学生用のカバンを専門に供給してきた。勧は2021年に5代目として家業に入った。親子ならではの噛み合わないやり取りを見ていると、従来の親子関係を超えた緊張感を感じる。勧と父は、これ以上ないほど異なる世界で育った。

原爆投下後に再建された広島の戦史が生んだもの

勧の父がそのハシゴの一番上にいるのは、柳をしっかりと編んで作った柳行李を見せたいからだ。軽くて丈夫、水や虫にも強い柳の特性を活かした柳行李は、約1200年前から使われている。柳行李は、武家の大名が領地と江戸を往復する際の荷物の運搬に用いられていたほか、第二次世界大戦末期まで日本の軍人が使用していた。

1897年、片岡商店の創業者が兵庫県豊岡市(この地方が長い冬の間、柳行李を作る伝統があり、現在も主要な鞄の生産地である)から広島に移転したのは、このようなトランクを軍に供給するためだった。開港したばかりの広島の港は、日清戦争(1895-6年)の際、何千人もの兵士の出港地となり、その後の日露戦争や、第二次世界大戦が終わるまで日本の帝国拡大期においても、重要な物流の役割を果たし続けた。

倉庫にあるトランクは勧の祖父のものだ。驚くほど状態がよく、美しい細工の籐細工に大きな漢字で「片岡」と描かれている。この遺品は、勧の祖父が原爆投下時に福岡に駐在していたために残されたものだ。爆心地から約500mの場所にあった片岡商店は爆風で全焼し、従業員と共に勧の大叔父と曾祖母の命も奪われたが、運命的なことに、勧の祖母は原爆投下の前日に曽祖父と山へ疎開していた。

その2年後、生き残った家族が現在の場所で事業を再開し、鞄やバッグ、レインコートなどの旅行用品を販売した。1980年代には合成皮革のランドセル・学生用カバンに力を入れ、軽量で防水性の高い素材を使ったバッグの開発・製造にシフトした。現在、片岡商店は広島市内の中学生が使用するカバンの約3分の1を製造している。 

127年の歴史を受け継ぐ責任

片岡勧は、長男として、いつかは家業を継ぐことになるだろうとは思っていたが、育つ過程では特に興味を持っていなかったと告白する。農業の学位を取得した後、フォークリフト会社などでサラリーマン生活を送った。会社組織で働くことに不満を抱くようになり、興味のあること(企業の株式分析から、東京のバルコニーで水耕栽培でゴーヤを育てることまで)についてブログに書くことで磨いたスキルを生かし、自身のコンテンツマーケティングのスキルを売りに独立した。  

ところが2020年、父親から電話がかかってきた。高齢化と今後の事業の将来性を考えると、勧が後を継ぐ覚悟がなければ、もうやめようと考えているというのだ。勧は学生用カバンに特別強い思い入れがあったわけではないが、127年の歴史の重みを痛感していた。そして責任感もあった。もし自分が会社を終わらせることになったら、先祖がみんなを失望させたと祟るのではないかと心配したんです」と冗談を言う。

熟慮の末、勧は父の事業を引き受けることを決意した。少子化で片岡商店の伝統的な顧客基盤が崩壊し、安価な海外製品との競争にさらされる中で、生き残るだけでなく、繁栄する道を見つけるために全力で働くことを決意した。

新たな方向性を求めて

片岡勧がチャレンジ精神旺盛な人物であることは確かだが、そのスタートは険しいものだったと告白する。就任早々、喫茶店で作ったというマインドマップを披露してくれた。それは、彼の心境とビジネスの状態を見事に表している。複雑で混乱した、挑戦と疑念の網の目である。 

しかし、それは現状を明らかにし、出発点を見つけるためのものだった。最初のステップは、整理整頓だと彼は決めた。店舗兼作業場は、70年以上にわたって蓄積されたさまざまな "モノ "が所狭しと置かれ、小売業というよりは倉庫のようだった。

片岡の長い歴史を物語る骨董品や貴重な記録もたくさん発見されたが、処分すべきガラクタもたくさんあった。しかし、ある人のガラクタは別の人の宝物であり、大掃除は父との軋轢の種となることもあった。

勧の父親は、彼の宝物を私たちと共有しながら、「息子の思い通りにしていたらすべて捨てられていただろう」と何度もコメントし、すべてが片付いた今、「何も見つからない」と愚痴をこぼす。

勧の仕事場は、工具が壁に所定の位置にすべて吊るされており、父の仕事場はやや雑然としている。

しかし、勧のバッグいじりはバッグだけにとどまらない。彼の数え切れないほどの趣味のひとつは、ドローン、特に一人称視点ドローンを自作することだ。

彼が、私たちにデモンストレーションを見せるのに、さほど促す必要はない。彼はまるでロボコップのようなヘッドセットを装着し、小さなドローンを発射すると、小さな店内を一周し、私たちが話している間、机に向かって仕事をしていた母親の背後の壁に激突した。「この子はいつもこんなことばかりしているのよ」と彼女は嘲笑しながらも、彼の遊び道具が実際のビジネスチャンスにつながり、オンラインコンテンツの人気ソースにもなっていることを、明らかな誇りをもってすぐにフォローした。 

片岡商店の強みを生かした多角化

片岡勧の天性の好奇心、実験好き、横の視野を持つ能力、そして遊び心--これらはすべて、片岡商店の来世紀を守るための彼のアプローチの鍵である。

彼はすぐさま、この企業の強みのひとつである製品の耐久性について掘り下げた。学生用カバンはクールなアクセサリーではないかもしれないが、非常に丈夫でなければならない。このことを踏まえ、同店では現在、"広島のヤンキー中学生に3年しごかれても壊れないミルスペック級のスクールバッグ "であることを誇らしげに掲げている。


少子化の危機が深まる中、勧は学校の枠を超えて片岡商店のブランドを確立しようとしている。ニッチなターゲットとしては、サバイバルゲームや、ミリタリースタイルのデザイン要素をホールドオールに加えること、そしてブロンプトンバイク所有のオーナーにアピールできるようなサッチェルバッグをテストしている。

さよなら紙袋と名付けられた防水サブバッグは、A4書類とノートパソコンを入れるのにぴったりのサイズで、顧客との打ち合わせに書類を持ち運ぶ時間が長い日本のビジネスマンをターゲットにしている。

彼は、大掃除の際に発見されたオリジナルの会社のロゴをあしらったTシャツのラインまで立ち上げている(捨てずに保管することに合意した父と息子の数ある宝物のひとつ)。 

敬意と感謝

まだ日が浅いが、片岡勧は軌道に乗りつつある。広島での仕事と東京にいる家族のために時間を割いているが、それでも片岡商店を飛び出す時間はある。米袋をスタイリッシュなトートバッグに再生するワークショップを主宰している。一度に30kgの荷物を入れることができ、非常に頑丈に作られている。最近、彼のもうひとつの趣味である太田川での石飛ばしのために錦帯橋に行った際に集めた、重い石を詰めた小さな袋がそれを証明している。

片岡商店での時間を終えようとしているとき、勧の父親が作業場から出てきた。父と息子のやり取りが再会され、まるで卓球のように、会話のボールが勧の母親の頭上を行ったり来たりする。何十年もの間、先人たちが同じように言葉のダンスを踊ってきたことが容易に想像できる。

しかし、そのやりとりの合間には、広島の子供たちの安全な登下校のために生涯を捧げてきた父親に対する勧の尊敬の念と、事業を継いだ息子に対する父親の感謝の念が感じられる。

これからも、この掛け合いが続きますように。