歴清社:激動の時代を乗り越えた起業家精神の輝かしいお手本
高級ホテルやファッション・ハウスを彩る金箔や金属箔を手作業で貼った壁材を製造している歴清社の物語は、武士の始まりから現代に至るまで、再起力と革新の感動的な物語である。
広島に原爆が投下された数日後、10歳の久永洪氏は、歴清社の金箔壁紙工場と実家があった木造5階建てのビルの跡地に戻ってきた。残っていたのは、1つの倉庫と高さ27メートルの煙突だけだった。彼は2017年、灰と化した自宅を見て「言いようのない寂しさ」を感じたと地元紙に語っている。歴清社が灰燼の中から立ち上がり、世界有数のブランドに壁材を供給するようになったのは、驚くべき回復力の物語であるが、一家が自分たちの力ではどうにもならない力によって生み出された困難を乗り越えなければならなかったのは、これが初めてではなかった。
サムライ刀からインテリアデザインへ
1876年、日本では刀剣の使用が厳しく制限され、刀鍛冶の多くは農具やナイフの製造に転向せざるを得なくなった。しかし、影響を受けたのは刀を鍛えていた職人たちだけでなく、刀を売っていた職人たちも同様だった。
1619年に主君に従って広島にやってきた商人の子孫、久永清次郎もその一人だった。主力商品を奪われた清次郎は、かつての武家の必需品であった金箔入りの屏風の販売に切り替えた。明治38年(1905年)に清次郎が創業することになる歴清社の源流は、この慧眼にある。
屏風に使われている金紙は、金沢で生産された金箔を和紙に貼ったもので、当時、着物作りに細い金紙糸を使っていた京都は、金紙生産の中心地であった。広島でも金箔は採れたが、京都産の金紙は入荷待ちが多く、起業家の清次郎は自分で金紙を作ることを考え始めた。偶然にもその頃、彼は地元の額縁職人からヨーロッパの真鍮箔を紹介された。
光り輝くものすべてが金である必要はない
真鍮箔は金のような外観を持ち、製造コストも安いため、金箔の代わりとして理想的だと思われた。しかし、真鍮は時間の経過とともに変色しやすく、お祝い事には不向きであるため、彼は変色を防ぐ加工法の考案に心血を注いだ。
10年にわたる試行錯誤の末、清次郎は、後に歴清社の金(色)の卵となる特許を取得した。この製法は、100年以上経った現在でも、多くの人が試みているが、未だ再現することに成功していない。
歴清社も本物の金箔紙を作り続けたが(現在も作り続けている)、日本中で人気を博したのは、美しい黄金色の光沢が低価格で得られることで有名な真鍮箔の屏風だった。 1920年代には、アメリカのバイヤーから金箔入り壁紙の注文が入り、日本の住宅デザインの変化とともに、国内市場での使用も増え、ビジネスは好調に推移した。
戦争と復興
第二次世界大戦中、金箔装飾の生産は軽薄な贅沢品とみなされ、歴清社は軍服の包装用紙の生産に切り替えた。
清次郎は1945年の原爆投下で家族を2人失い、自身も重傷を負った。 厳しい時代だったが、徐々に回復し、原爆投下後、地元の人たちが仮設住宅を建てた際に防水材として石炭タールを紙に塗ることで生計を立てていた。 1959年、歴清社は焼け残った煙突と土蔵を中心に、原爆を免れた近くの体育館と小学校の資材を使って工場を再建したのである。
戦後の好景気と芸術の革新
皮肉な運命のいたずらであるが、1964年の東京オリンピックで日本が世界を歓迎する準備のため、西洋のホテル・デザインを研究するためにアメリカに行った日本の代表団が、ある壁紙に興味を持ったので尋ねてみたところ、それは日本の歴清社が提供しているものだと言われて驚いた。 このお墨付きによって、彼らはその後の日本の急速な発展の一端を担うことになったのである。 また、現在でも最も重要な海外市場であるアメリカでも、「東洋ブーム」の恩恵を受けた。 現在、歴清社のビジネスの大部分は壁紙であり、海外と国内がほぼ半々である。
歴清社は、金箔や真鍮箔のほか、銀、銅、ピューター、アルミニウム、プラチナなどの金属も扱っている。 銀箔を硫黄で燻すことで、赤、青、黒などの質感のある色や模様が生まれる、これは高度な技術を持つ者だけができる作業だ。
金箔をふんだんに散りばめたコーヒーを飲みながら、歴清社の海外開発責任者である藤井育代氏は、真鍮やピューターなどの金属箔は金や銀に劣るように聞こえるかもしれないが、1920年代に久永清次郎が特許を取得した塗布方法によって、時間が経っても貴金属と見分けがつかない外観を保ちながら、原材料のコストが低いため、デザインへの投資を増やすことができると説明する。
世界のトップブランドからも注目され、寺社仏閣の装飾だけでなく、国内外の高級ホテルやレストラン、ファッションハウスでも、歴清社の金箔紙を目にすることができる。
歴清社の多才ぶりはヒルトン広島でも発揮されており、随所に金箔紙が使われている。宿泊の際は、ぜひヘッドボードをチェックしてほしい。青いオーガンジー生地に真鍮箔のチップを貼った礫星社のおかげで、見る角度によってブルーからゴールドへと表情を変える。ハーシュ・ベドナー・アソシエイツの上田良哉氏は、歴清社のおかげで伝統的な職人技を現代的に見せることができたと語る。
私が工場を訪れた日、歴清社はニューヨークの中心部にある大手ファッションブランドの本店の内装デザインを受注したことを聞いたばかりだった。
歴清社の専属デザイナー、戸石優子氏と久保田千鶴氏に祝辞を述べた後、彼らはアートとプロダクトデザインの間にある微妙な境界線について教えてくれた。 彼らは、見込み客の想像力をかき立てると同時に、彼らのアイデアが生産ラインで実現できるようにしなければならない。 金属箔を扱うという期待に胸を躍らせながらも、二人とも歴清社に入社した当時は金属箔という素材に触れたことがなかった。 戸石さんは、そのような経験にもかかわらず、アイデアの原型から、同社の職人が何千という単位で一貫して複製できるようにすることへの移行は、常に挑戦であると言う。
本物の金は溶鉱炉を恐れない。- 中国のことわざ
特別注文の和紙を使い、手すきで金箔を貼る歴清社の品質はにもかかわらず、壁紙の99%がビニールの世界では、その成功は決して安泰ではない。 6代目の久永 朋幸社長は、先代からの精神を受け継ぎ、既成概念にとらわれない発想で、自分たちの仕事の価値をもっと知ってもらい、業界内だけでなく、歴清社のブランディングを高める方法を積極的に追求している。
アーティストやファッションデザイナーとのコラボレーション・プロジェクトに加え、歴清社は、私たちの日常にちょっとしたきらめきを加えてくれることを願って、さまざまなライフスタイル商品を開発している。 戸石はこう言う。「ゴールドの別の側面を見てもらいたいんです。 ゴールドは華やかなイメージを持たれがちですが、決して仰々しいものではありません。 とても温かみがあり、人間的でもあるのです」。 藤井は、国連総会のメインの演説台が金で裏打ちされているのは、ヒロシマの平和メッセージとの象徴的なつながりだと考えている。
少年時代に廃墟と化した工場を見て絶望した久永洪さんは、88歳になった今でも会社の顧問を務め、自分や家族、広島の人々があの暗い日々に苦しんだ経験を語り継いでいる。 歴清社の近代的なショールームの奥にあるドアを一歩入ると、そこは60年前とほとんど変わっていない工場だ。 迷路のように入り組んだ廊下や階段は、被爆建物を再利用したもので、久永精二郎の遺志を継ぐ職人たちの工房をつないでいる。歴清社は、広島の悲劇と感動的な復興を象徴しており、広島の武士の過去から現代へ、そして明るい未来へと続く道筋をたどっている。
歴清社の加工方法の詳細は極秘だが、同社は体験ワークショップの一環として、魅力的な工場見学を提供している。金箔や金属箔の加工、職人たちの仕事ぶりを見学し、この注目すべき会社の歴史を感じる絶好の機会だ。