対厳堂: 宮島から世界へ、聖なる砂と平和への願い
Across the water from Itsukushima Shrine, the Yamane family have been running Taigendo kiln since 1912. With close links to the ancient shrines and temples on sacred island, Taigendo’s products are more than mere souvenirs.
民俗的習わしから神聖な儀式、土産物まで
年に一度、厳島神社の特別な儀式で、神職は山根興哉にずっしりとした砂袋を授与する。しかし、これは普通の砂ではない。12世紀から神社があったとされる海辺の砂であり、宮島という島と同様に神聖なものとされている。
三代目山根興哉は、本土と宮島を隔てる短い海峡を挟んだ対岸にある対厳堂窯の現当主であり、いわゆる「お砂焼」の生産者として知られている。
お砂焼の起源は、古くからの民俗行事にある。旅に出る際、地元の人々は旅の安全を厳島神社へ祈願した。その際、お守りとして厳島神社の下の砂を持ち歩いた。その砂と同量の旅先の土を持ち帰り厳島神社へ下に返すという風習が「お砂返し」である。やがてこの風習は発展し、19世紀には、砂を混ぜた粘土で作られた祭器が厳島神社へ奉納された。そして島内で土産物として製造されるようになった陶器は、お砂焼または神砂焼と呼ばれるようになった。
山根の祖父(初代山根興哉)は、お砂焼きを復活させた窯元のひとつである対厳堂を1912年に創業し、以来、厳島神社の御用窯となっている。そして、対厳堂は現在もその伝統を受け継ぎ、宮島の神聖な砂の粒を土に混ぜて、さまざまな焼き物を生み出している。
宮島口フェリーターミナルの近くにある、今は使われていないレンガ造りの煙突が目印の対厳堂のギャラリーで、お砂焼の歴史について話していると、山根さんの妻が、窯元に古くからある古い木箱を取り出した。中には、お神酒を入れる素焼きのかわらけ盃に神社の紋を浮き彫りにするために使われる、数十年前に作られた精巧なはんこがずらりと並んでいる。厳島の紋(花と剣が描かれた3つの六角形で、神社の参道に飾られた提灯にも見られる)のほか、各地の神社の紋のはんこもある。興哉さんは、最近はお正月に神社にお参りすると、大量生産の盃でお神酒が振る舞われることが多いと嘆く。彼らが、かわらけ盃の伝統を守る一員であることに誇りを持ち、それを続ける厳島のような神社に感謝していることが伝わってくる。
宮島の思い出を手作りで
陶製の鈴もまた、対厳堂が厳島神社のために作る神具のひとつだ。災厄を払うといわれる神社の紋を立体化したこの鈴は、毎年何百個も作られる。その製造工程の多くが手作業であることに驚かされる。
対厳堂は、毎年宮島を訪れる膨大な数の人々(2019年には450万人を突破)のために、高度な職人技術や伝統への敬意を犠牲にすることなく製品を提供している。対厳堂の、本物のもみじの葉を使った商品シリーズがそれを最もよく表しているだろう。
もみじ紋は母親のアイデアだと山根は言う。もみじは広島の公認樹木だが、宮島と最も密接な関係がある。秋になると、何千人もの人々が宮島のもみじの鮮やかな赤色を楽しみに訪れる。
お砂焼の様々な製品を彩る葉のデザインは、焼成前に近隣の木々から採取した本物の紅葉の葉を一枚一枚丁寧に陶器に貼り付けて作られる。コップや皿など、宮島での思い出を彩るアイテムは、こうした手間をかけることで、その価値を高めている。また、スターバックスは対厳堂に依頼し、宮島店限定のもみじ紋コーヒーマグを毎月限定数生産している。
芸術対商業、そして平和の精神
山根と話をしていると、どこか葛藤があるように感じられる。彼は根っからの芸術家であり、粘土との対話とでも言うべき時間を過ごすことが何よりも好きなのだ。窯元に併設されたギャラリーでは、山根の唯一無二の芸術作品(そして父親の二代目山根興哉の作品も)を見ることができる。普段は物静かな山根だが、自身の制作過程や素材が「理想とする形になる」までの過程について話すと、生き生きとした表情になる。
最近のプロジェクトは、コンセプトにおいても製品そのものにおいても、手作りの記念品と芸術作品の中間に位置している。
2歳で被爆し、12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんの壮絶な物語は、世界中の人々の心を動かし、折り鶴は核兵器廃絶と平和への願いの象徴となった。毎年、約1000万羽の折り鶴が広島に送られ、広島市の平和記念公園内にある「原爆の子の像」に供えられる。その膨大な量に対応し、新しく送られてくる鶴をも供えるには、1200年の歴史を持つ宮島の大聖院で、今まで供えられていた折り鶴をお焚き上げするのが最もふさわしいと判断された。
儀式に使われる火は、大聖院創建以来、宮島の弥山で1200年以上絶えることなく燃え続けてきたとされる消えずの火から採られたもので、平和記念公園の慰霊碑に掲げられる「平和の灯」と同じものである。
山根はお焚き上げされた折り鶴の灰を大聖院から譲り受け、焼き物の釉薬として調合し「折鶴灰釉」を開発した。そして「折鶴灰釉」を使い折鶴の形をした香炉を制作した。世界中から届けられた折鶴が、山根の手で生まれ変わったのである。
釉薬を完成させるのは簡単ではなかったと山根は言う。木ではなく、紙でできた灰を使うという課題を克服するまでには、試行錯誤の長いプロセスがあった。さらに、世界中から寄贈された折鶴には、紙やその他の素材が何種類も含まれているという複雑さもあった。
しかし、これは山根にとって身近なプロジェクトだった。彼の母親は10代で被爆し、比較的幸運だったとはいえ、腕の傷跡を隠すためにいつも長袖を着ていて、自分の体験について語ることはなかったと回想する。彼は、原爆忌に割かれるコラムの分量が年々減っていくのを見るにつけ、ますます悩むようになったと言う。
「折鶴灰釉香炉 祈り」は1つ作るのに1年ほどかかり、注文を受けてから作る。そこで山根は、原爆の子の像の形をモチーフとした小型のランプも開発した。折鶴灰釉が塗られた皿の上にミツロウキャンドルが置かれ、その灯火でドームに彫刻された折鶴が浮かび上がる。
山根は、世界中で折られた折り鶴の一羽一羽に込められた思いを少しでも長く伝えるだけでなく、平和のために努力し続ける必要性を穏やかに思い起こさせるようなものを作ることで、広島と長崎の悲劇が忘れ去られることのないよう、ささやかながら貢献できたのではないかと考えている。
核兵器使用の可能性が再び取り沙汰される中、2023年3月に日本の外務省が急遽発注したランプが、同月下旬に戦火のウクライナを訪問した岸田文雄首相からヴォロディミル・ゼレンスキー大統領に贈られた。そして、広島G7サミットに出席した各国首脳にもランプが贈られた。対厳堂のおかげで、世界中の平和への願いが彼らの職場で輝いていると願いたい。