高山尚也と日本漆器の日常的な贅沢

100年以上続く仏壇販売会社の4代目当主である高山尚也氏が、日本で最も美しい漆器の制作に才能を発揮し、高い評価を受けている。

高山尚也にとって2023年は忙しい年だった。5月に広島で開催されたG7サミットに出席した各国首脳とそのご夫人方に高山氏の美しい漆器の椀が贈られたことが発表されて以来、注文が殺到しているのだ。

高山は、日本の首相夫人の依頼を受け、朱色と漆黒の「あけぼの」手塗り漆器を制作した。実際に手に取ってみると、朱と漆黒の色彩が見事に調和している。繊細なグラデーションは、高山がインスピレーションを受けたという夜明けの日の出のイメージを見事に表現している。

広島仏壇

私たちは高山尚也の家業である高山清の2階にあるギャラリーのソファに座っている。1913年に会社を興した曽祖父の名前にちなんで名づけられた高山清は、仏壇を扱う店で、仏壇通りと呼ばれる通りにいくつかある店のひとつだ。夜の繁華街のはずれにあるこの通りは、神聖なものと道楽なものが入り混じった不釣り合いな場所だ。仏教の道具を陳列した店先の向こうには、平日の朝には消えてしまったネオンサインがあり、VIPルームやグロー・バーといった店名が掲げられている。

バーが近代的に発展した一方で、広島の仏壇製造の歴史は街そのものと同じくらい長い。1619年に浅野長晟が広島に赴任した際に同行した職人たちが、その礎を築いたと言われている。仏壇の製造には7つの工程があり、それぞれの工程を専門の職人が担当する。そのため、仏壇は日本の伝統工芸を体現するものと言われることもある。

19世紀末に封建制が終わると、仏壇は大阪の問屋に卸されるようになり、取引が盛んになった。20世紀初頭、徒弟たちは彫金、金具、金箔、漆塗りなど、それぞれの作業に応じて市内各地で腕を磨いた。漆の塗布と研磨を専門とする高山清は、1945年の原爆投下で仏壇業界と市全体が消滅した後、仏壇製造の歴史の継承を目指した数社のうちの1社だった。

運命への道

高山尚也は、学生時代には祖父の寺の修理や修復の仕事を手伝うことが多かったが、先祖の跡を継ぐのが当たり前だとは思っていなかったという。実際、京都の伝統工芸大学に入学したのは、大学卒業後の進路に迷っていたからだと告白する。

結局、大学を中退し、京都の仏壇職人に弟子入りした。今でも職人見習いというのは、それなりの体力と精神力を必要とする厳しいものである。多くの同期が途中で辞めていく中、同じような環境で育った高山は、とても居心地がよかったという。漆塗り職人に空きがなかったため、金箔の練習から始め、次に呂色(ろいろ)と呼ばれる漆のキャビネットを磨く技術を習得した。

そして、2500年以上前の縄文時代から脈々と受け継がれてきた知恵と経験の積み重ねが、荘厳な作品を生み出すのだと実感したという。また、京都の多種多様な仏教宗派の芸術的伝統に触れることで、広島の主流宗派である浄土真宗以外の可能性にも目を向けるようになった。

漆器との出会い

2009年に広島に戻った高山は家業に就き、その後10年間、寺院で仏壇や仏具の製作、修復に携わった。意外なことに、高山が漆器(木や布に漆を塗り重ねた食器や装飾品)に初めて取り組んだのは5年ほど前のことだった。お客様の依頼により、高山は木や布を薄い漆で覆い重ねて作られる食器や装飾品である漆器の製作に初めて挑戦したのだ。ただこの寺院の僧侶の漆器の修理にあたり、高山は仏壇などに使う刷毛などの道具は、一般的な漆器に使われるものよりはるかに大きいため、新しい工具セットが必要だった。そして、作った道具は捨てるのではなく、高山は自身の漆器制作に利用することにしたのだ。

少し照れくさそうに彼は言う、この時まで手袋をせずに作品に触れたこととはなく、手や唇で直接触れることが新鮮だったという。手や唇で触ることで、食べ物や飲み物の味わいはもちろん、漆器を使った体験全体を格段に向上させることに驚いたという。彼は初めて、漆器が寺院で見るものであるだけでなく、日常生活で使われるべきものとして、その価値を真にに理解したのである。

パンデミック渦のプロジェクト

仏壇の需要が減少する中、高山は漆器への参入を、家業の多角化だけでなく、世界最古の工芸品のひとつを守るチャンスだと考えた。ちょうどコロナの大流行が始まった頃で、これまでの受けていた通常の仕事がなくなる一方で、高山は漆器の研究と実践に専念することができた。

長年、寺院で漆に携わって研鑽を積んできた技術はうまく伝わったものの、伝統工芸のコンクールに出品した当初は、あまり評価されなかった。雇われ職人として働くのとは違い、アーティストとして認められるには自分自身のスタイルを確立する必要があると考えた彼は、西日本の伝統工芸の最高峰を見るために、制限の許す限り美術館やギャラリーに足を運び、研究を重ねた。

京都の丘と広島湾の海

群衆から抜きん出る方法のひとつは、彼が技術を学んだ京都に敬意を払いながら、形に地元のひねりを加えることだった。インスピレーションは広島湾の水から得た。広島の仏壇職人たちは、漆を塗り重ねる際に重要な下地層に、現在でも地元で豊富に養殖されている牡蠣の殻から作った粉を加えていた。高山は、牡蠣の殻の粉を京都の食材である山科の土と組み合わせることを思いついた。

高山にとって、地元産の牡蠣殻の粉を配合することは、優れた下地になるだけでなく、彼の使命を表現するストーリーになった。この職人技は、山から城下町まで川で運ばれる天然資源に依存していた。同じ川が、牡蠣畑の成長に必要な栄養分を供給していたのだ。漆器の世界に足を踏み入れてからわずか1年後、高山の作品はコンペティションで評価されるようになり、2022年には「広島ブランド」に認定されることになる。

日常の贅沢

高山のギャラリーは、最も美しい漆器の作品で埋め尽くされている。匠の技でありながら日常使いを想定した彼のシグネチャーシリーズから、ディスプレイ用の芸術的な大作まで、その種類は多岐にわたる。伝統的な仕上げだけでなく、高山は通常の漆器が一般的に興味を持たせていた市場よりも若い世代に関心を引き寄せるために、明るい色彩の作品も数多く手がけている。

木ではなく、上質な麻布に漆を重ねた乾漆の作品を手に取った。羽のように軽く、まるで空中から魔法のように生み出されたものを手にしているような感覚になる。1年がかりで作られる限定版の「伝・潮騒」酒器セットは、この手法を効果的に用いている。鳩の形をした酒器、島をイメージした酒器、瀬戸内海をイメージした盆で構成される「伝・潮騒」は、広島市長がG7首脳に贈るのに最適な贈り物となった。


ご想像の通り、高山の作品は決して安くはない。しかし、この素晴らしい芸術作品の手触りを感じ、その制作に費やされた技術、心遣い、時間を理解すれば、すぐにその価値がわかるようになる。高山は、5年前に自分がそうであったように、より多くの人々が、日常生活の中で優れた工芸品を使うことで得られる喜びの瞬間を発見してくれることを願っている。高山は、コロナ禍、寺院での長時間の仕事を、漆器を極めることに執念を燃やし、ほぼアトリエに住み込み、毎日朝方まで家に帰らなかったという。父親は息子の漆器が売れるようになるのだろうかと心配し、妻は幼い息子の生活から彼がいなくなることを心配した。しかし、高山は「成功するしかない」と思ったという。高山は日本の職人の世界ではまだ若手だが、自分の技術を進化させ、次の世代に受け継がれるものを作り上げる責任を痛感している。

ギャラリーの上にある小さなアトリエで、奥さんに支えられながら熱心に仕事に取り組む高山の姿を見ていると、人々は生活にちょっとした贅沢を加えたいと考えているようだ。高山の漆器は、次の100年の家業の鍵になるかもしれない。